古い話題で申し訳ないが、少々思う所あるので蒸し返させてもらう。
小泉元総理の靖国参拝が問題になっていた。しかしそれが合憲か違憲かというトピックが一番ばからしい議論に聞こえた。公人か私人かというのはもっとばからしい。そこまで意味のない論争を作り出せる程日本はヒマと平和に満ちあふれた国であったか。
ローマ教皇庁からは「靖国参拝は宗教的行動ではないため日本のカトリック信徒は自由に参拝してよい」との通達が出ている。なぜなら靖国参拝は日本国民の自国への独自の価値観や愛国心の現れであるからだ。靖国神社が一宗教法人だろうがなんだろうが、靖国に参拝することが本来宗教的行動でないのだから批判するに当たらないはずである。それを重箱の隅つつくように矛盾した憲法の端切れを持ち出してきて騒ぎ立てるのはどういうわけだろう。
公人か私人かという議論も意味がない。一旦政治の世界に入った人間が私人になり得る理由がどこにあるというのか。きっと家出家族と過ごしているときぐらいだろう。政治家になりたい人というのは、そういう仕事を’やりたい’人でありなおかつ自ら進んでスケープゴートになれる人だと思っている。総理大臣なんてのはその代表だ。良いことはどさくさにまぎれて、ミスや不足点だけが表に出される。批判は小学生でもできるのに物書きのプロたる者たちが一歩進んだことをやりたがらないのは甚だ遺憾である。
国際裁判に関しては保留。これはこの問題に深く関係しているのだけど持ち出したが最後泥沼になることがさけられないであろうから。しかしあえて抵触さて頂く。
>滝本氏:死んでいった人間を供養するのは残っている人間。子孫。
A級戦犯合祀のために、戦争の正当化となるから靖国参拝は良くないという主張がある。しかし私は靖国の内部に居るのは決してA級戦犯だけでなく、むしろそういう人はごく一部であって祖国の戦争のために亡くなった全ての人たちの霊を祭った神社であると言いたい。また、戦犯とされる人の霊に弔意を表したからといってその人の生前の行い全てに惨事を表すことにはならない。故人の行動を非難しても故人は弁護できないし、第一何も始まらないではないか。思うに「死者をむち打たない」という日本文化はここから来たものであって、単純に哀れみから来たのではないのだろう。それに、死者の行動の善悪を絶対の正確さではっきり断定できる程私たちは完璧ではない。
無宗教で犠牲者を弔う云々だが、私はこれについてはっきり言いたいことがある。
>滝本氏:人それぞれ供養の仕方があるはず
もっともだ。正しい。しかし、
>滝本氏:その人間が信じている宗教で祈ってあげなければいけないのではないか。
これにはちょっと異議がある。
滝本氏はブログで「日本人の宗教感覚はいいかげんである」と書かれていたが、宗教をいいかげんに考えている日本人がこういうときだけうるさく騒ぎ立てるのはどうしたことだろう。人間生きている限り思い通りにいかないことが多いが、この場合死にっぱなしで弔われずに放ったらかされているよりは遥かにマシな気がする。お遍路さんは「私がどこかの道ばたで死んだ場合にはその土地のやりかたで埋葬して頂ければありがたき幸せです」といったような文句の書かれた紙を持っていたそうだ。八百万の神々を信じてすがる日本人ならではの感覚だ。アマテラスの下にはどんな神様がいたってかまわないという懐の広さというかなんと言うか。そして具体的教義がない。なぜなら神道は宗教というよりもむしろ日本の精神そのものであって哲学といったほうがしっくりくるようなものだからだ。仏教にもこれと近いものがある。面白いことに大乗仏教にはキリスト教のような一神教に非常に良く似た側面を持っているのだが、この話はまた今度。。。
また滝本氏は、祖父たちがまつられていることに違和感を感じている人、ありがた迷惑と考えている人が多く居ると思うと書かれていたが、私はそのような人間にお目にかかったことがない。もし誰か知り合いにそのような方がおられたらぜひとも紹介して頂きたい。そういう方はきっと貴重だから意見を聞いてみたいとわくわくしている人間がここにいるのだよ。反対に「心のふるさと」と言う人には会ったことがある。祖父や弟に会えるからという理由で行きたがる人もいる。
ところで無宗教の宗教施設って何だろう???
前と後ろの単語がけんかしてるので恐らく滝本氏はしらふでないときにブログを書かれたと思われるが、まあ大体言いたいことはわかるので深く突っ込まないことにする。
魂には導き手が必要で、放り出された魂はさまよい続ける以外の選択肢を持たない。
これこそ、心の問題ではないだろうか。
私たちは弱い。
もっともらしい批判を聞くとうなずきたくなるし、誤解を招くようなこともできれば言いたくない。
現在の憲法。
滝本氏のおっしゃられる通り、これは大きな問題なのでかなりの議論を必要とする。本来このようなサブトピックに挿入すべきではないのだろう。
私としてはできた経緯も気に入らないが矛盾があることが一番の傷だと思う。比べれば大日本帝国憲法の方が遥かに良くできている。今の憲法は突っ込みどころ満載と言ったところだろうか、言葉根本から直さなければいけないところが沢山ある。記されている基準も曖昧でとても良くできているとは思えない。もし世界中の国がまねし始めたら、私はこれを世界の崩壊とすら見るだろう。
平和憲法であるかもしれない。しかしこれを突き詰めて行くと平和とは何ぞや、ということになってくる。何だと思いますか?人によって解釈は違うだろうが、いわゆる世界平和とは世界中のどの地域も兵器を用いた戦いをしていない状態のことだと思う。よって大きく分類すると二種類に分かれる。冷戦状態。もしくは完全なる世界平和(世界中のどこの国もがいがみ合いもせず争いもしない完全平和)のふたつ。はっきり言おう。後者の完全平和が来る日は永遠にないと言える。さて、これは私たちが目を背けてはならない痛い現実である。昔、誰かがテレビで「いじめは絶対になくならない」と発言して非難を浴びた。しかし悲しいかな。これは人間が集団生活をしている限り真実である。人間に限らず他の動物の場合も同じだ。人間には”モラル”があるだけまだ他の生き物よりましだろう。(しかし最近はモラルのない人間が多いなあ・・・)平和ボケした人たちは外交あるいは経済制裁で世界平和が来ると信じている。そしてヒューマニストたちは悲しそうに「人を信じられないとはなんと悲しいことでしょう」なんて平気で言うのだ。「いじめは無くならない」と言うのと「無くさなくてよい」とは全く違う。限りなく少なくすることは十分に可能と言える。”みんな良い子”の教育をしていると爆弾抱えた子供を’製造’しかねない。戦争と子供のいじめに違いがあるとすれば、単なる規模と複雑殿違いであろう。力が均衡している場合は冷戦もしくは泥沼になる。
私たちは現実に対して謙虚でなければいけない。
現実にそぐわない理想は持っておくだけで良い。理想は友人と語り合い、手に入れるよう努力するものであって、完全になるまでに達成されなければ非難の対象になるような代物ではないはずだ。何度も言うが、「達成されなければならないものではない」ということは「達成しなくてよい」のではない。
滝本氏は徴兵制にも触れていたが、徴兵制の話をする前に”ジュー”に触れておく。
私の周りにはジューと呼ばれる人たちが沢山いるのだが、彼らの兵役に対する見解は日本のものとははっきり異なる。自分が行かないと、自分も、自信の子供も、自分の愛する人も、国も精神も何もかもが消えてなくなってしまうことを骨身にしみて知っている。
さて、誰が戦争したいだろうか。
誰が戦場に行きたいだろうか。
これだけ自殺者の多い国の民ですら潜在意識は必死で生きようとしている。まさに殺されようとしている潜在意識でも生き延びようとして懸命に道を模索している。それなのに誰が好き好んで死にたいものか。それでも人は戦場へ行く。人間とは最終的には人のため世のために行動することができるのだ。ここでこうして性善説を肯定すると極論だろうか。そこに船窓がある限りさけて通れないものは沢山あって、これもその一つだと思う。
子供は大人と話すべきだし、大人は子供が考えていることに耳を澄ます必要がある。学校側が’自分の頭で考える教育’を行わない限り家庭や地域がそういった機会を子供たちに与えないといけない。
愛国心は国民の要。
近年日本人が日本を見直す動きが急速に見られるようになってきたが、大半はどうも薄っぺらい。
見直すべきは子供たちに教えるべき日本の姿だろう。